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あしあと

    伊藤忠兵衛記念館

    • [公開日:2022年1月18日]
    • [更新日:2022年3月30日]
    • ID:585
    伊藤忠兵衛記念館のチラシ表紙
    近江商人の筆頭 伊藤忠兵衛

     現在の大手商社の伊藤忠・丸紅の創始者で近江商人の筆頭と上げられる伊藤忠兵衛は1842年に繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生まれました。忠兵衛は17歳で近江麻布の行商に出かけ、長崎の出町で外国貿易の盛んな状況を見たことに刺激を受け、彼はついに我国の貿易のパイオニアと言われるほどになったのです。
     彼は、明治5年に大阪本町に繊維問屋の店「紅忠」を開設しました。開店と同時に忠兵衛は、近代的な経営方針を打ちだしました。
     それは、

    1. 店員の販売権限と義務の明確化
    2. 社内会議制度導入
    3. 利益三分主義(本家・店・店員への配当制度)
    4. 運送保険の利用
    5. 洋式簿記と学卒の採用
    6. 貿易業への進出

    などでした。いずれもこれらは当時においてはきわめて革新的なものでした。
     この時代は伊藤忠本店など5店を経営するかたわら、銀行・造船・製紙・貿易・保険などの事業も行いました。また、豊郷の村長も務め郷土人にも愛されました。これは、初代が心から自由を愛し、相手の人々を思いやることを常に信条としていたからです。現在の伊藤忠兵衛の本家は、「見越しの松に黒い塀」が中山道に面して、ひときわ目をひきます。

    「総合商社」の基盤を築いた二代目伊藤忠兵衛

      明治36年に初代忠兵衛が61歳で他界し、その通夜の席で次男・精一が17歳 の若さで父の跡を継いで二代忠兵衛を襲名しました。この後継者指名を行ったのは、初代の妻、八重夫人でした。そして八重は二代忠兵衛に伊藤各店の役職 には就かさず、丁稚小僧扱いで一からたたき上げると発表しました。これによって伊藤本店への入店から5年の間、得意先に商品を担いで訪問する「地方回り」 などの下積みを重ね”帝王学”を学ぶこととなりました。
      明治42年、イギリスに留学した忠兵衛は、外国商館を通さず直接イギリスと商売をすれば、中間の利潤がカットされ日本の国益になることに気が付きます。この経験が、今日の日本の「総合商社」の原点となっています。また留学中は、ドイツ、フランスからも織物を仕入れて日本経由で韓国にも輸出するなど、初代忠兵 衛の持ち下りの国際版として「総合商社」の3国間貿易の草分けとなります。  
        イギリス留学から帰国した忠兵衛は、本格的な国際化に向けて、海外の営業拠点づくりに奔走します。大正初期には、綿布は輸出を柱とし、販路はアフリカ東海岸にまでおよび、アメリカから紡績機の輸入などで着実に業績を拡大していきま す。その後、「伊藤忠商店」は本家の「紅長」と合併、「丸紅商店」が生まれ、現在の「伊藤忠商事」、「丸紅」へと発展していきます。

    豊郷本家における八重夫人の活躍

      明治5年、初代忠兵衛が大阪に店を構えた時から、豊郷本家における初代夫人、八重刀自の目覚ましい活躍が始まりました。
      大阪店で使用する江州米や八日市産のたばこの選定、味噌や梅干しの漬け込みをはじめ、毎年夏には大阪店のふとんを江州に持ち帰り、洗濯の上仕立て直ししていました。さらに、大勢の店員の盆、正月の着物の仕立てから下駄の調達まで行き届いた心遣いをしていました。特筆すべきは、八重刀自が初代忠兵衛の力強いアシスタントとして、江州での近江麻布の仕入れを一手に切り回していたことです。二代忠兵衛は「数万反の麻布を1日に発送するときの総指揮から食事・弁当の準備まで全部母が主宰しておったが、いわゆるケーバブルな人であった。」と回想録の中で述べています。 
      八重刀自のもっとも重要な仕事は、新入店員の教育でした。当時伊藤忠本店に見習い店員として採用されると、まず豊郷の本家で1カ月、八重刀自からじっくりと店員としての行儀作法や、そろばん等必要な教育をほどこしていました。入店後に店員が問題を起こした場合も、直ちに豊郷本家へ送られ、再教育されるのが常でした。
      晩年、八重刀自は二代忠兵衛に「私はたくさんの子ども用包装育ててきた。」と述懐していたとのことです。
      この豊郷の本家こそ、現代における社員研修所の先がけと言っても過言ではないはずです。
     

    フォトギャラリー

    初代忠兵衛の旧邸、二代目忠兵衛の生家である豊郷本家の写真

     

     

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