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あしあと

    2024年発行「広報とよさと」掲載の町史編さんだよりをご紹介します

    • [公開日:2024年4月12日]
    • [更新日:2024年6月7日]
    • ID:3398

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    最新号までアップロードしました

     豊郷町では町史編さん事業を進めています。現在は、民俗聞き取り調査や古文書調査などを順次進めているところです。

     これまで、調査を進める中でわかったことは主に「広報とよさと」の町史編さんだよりのコーナーの中でご紹介してきました。今回、より多くの皆様の目に留まりやすいように、発行年ごとに掲載ページを公開させていただきました。広報が発行され次第、記事を追加しますので、更新をお待ちください。

    愛知神社

    「大般若波羅蜜多経」(愛知神社所蔵)

     吉田の愛知神社には中世の大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)が伝わっています。その奥書に、弘安5年(1282)10月に佐々木近江守の願経として吉田社(愛知神社)に奉納されたという慈覚という者の記録があります。全600巻のうち残ったのは10巻のみですが、近江佐々木氏ゆかりの願経として経巻が移動することなく、約740年間の長い時間、この地に伝わってきたことに歴史の重みを感じます。近江佐々木氏の「願い」とは何か、今後も調査・研究を進めていきます。

    枝村商人

    美濃市大矢田の紙市跡

     上枝・下枝のあたりは、室町時代に活動した枝村商人の本拠地です。枝村商人は京都・宝慈院に美濃和紙を運ぶ役割を担っていました。写真は美濃市大矢田にある紙市跡です。大矢田は美濃和紙の生産地である牧谷と武芸谷の中間に位置し、月に6回の紙市が開かれていました。枝村商人はこの紙市を開催し、独占的な商業活動を行っていました。また宝慈院の通称は「千代野御所」であり、一説には花や図柄などさまざまな模様を色刷りにした千代紙のルーツとも言われています。枝村商人にゆかりのある宝慈院の美濃和紙が千代紙へと展開されたかもしれず、大変興味深いです。

    国会議事堂

    定礎に納められた記念切手

    国会議事堂を描いた油絵

     豊郷小学校旧校舎群には国会議事堂に関するエピソードが2つあります。一つは昭和12年(1937)2月11日に行われた定礎式で、富士山を写した日本最初の「風景切手」と、昭和11年11月7日に竣工した大日本帝国議事堂(国会議事堂)「記念切手」が納められたことです。もう一つは伊藤忠兵衛から寄贈された群馬の画家・正田二郎作の油絵に国会議事堂が描かれています。この絵は貴賓室に飾られていました。国会議事堂は富士山と同じく日本を代表するシンボルとして捉えられたのでしょう。日本一の小学校を目指すのに相応しいとされたのでは、と考えられます。

    校歌

                           (『藤川助三自叙伝』より引用)

    春は校歌を耳にする機会が増えますが、豊郷町内の各学校の校歌は藤川助(すけ)三(ぞう)氏(1909から1968)の作詞によるものです。藤川氏は愛知高等女学校や彦根高等女学校の校長をつとめた人で、俳人としても名高く、また『豊郷村史』を編集するなどこの地にゆかりの深い人でもあります。豊日中学校の作詞者「藤川すけを」は俳号とみられます。藤川は豊郷だけではなく、近隣では多賀や甲良などでも校歌を多く手掛けています。俳人らしく、五七調の日本語独特のリズムで書き上げられています。

    町史編さん事業では古い書物や写真を探しています

     町史編さん事業では資料の収集を行っています。豊郷町に関連する昔の写真や古い書物をお持ちの方はいらっしゃいませんか?江戸時代の書物だけでなく、大正時代、昭和時代のものも貴重な資料となりえますので、もしお持ちの方がいらっしゃいましたら、社会教育課までご連絡いただけますと幸いです。町史編さん事業へのご協力をなにとぞよろしくお願いいたします。

     町史編さん事業に関するお問合せは、ページ下部のお問い合わせ先までお願いいたします。