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あしあと

    2021年発行「広報とよさと」掲載の町史編さんだよりをご紹介します

    • [公開日:2022年9月16日]
    • [更新日:2022年9月16日]
    • ID:2867

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    2021年の「広報とよさと」掲載の町史編さんだよりを集約しました

     豊郷町では町史編さん事業を進めています。現在は、民俗聞き取り調査や古文書調査などを順次進めているところです。

     これまで、調査を進める中でわかったことは主に「広報とよさと」の町史編さんだよりのコーナーの中でご紹介してきました。今回、より多くの皆様の目に留まりやすいように、発行年ごとに掲載ページをまとめて公開させていただきます。

    引札

    引札「金のなる木」

    (青山信義氏所蔵)

     「引札(ひきふだ)」と呼ばれる、昔の広告ポスターをご紹介します。商品流通が活性化した江戸末期から昭和初期にかけて、福をあらわす恵比寿・大黒や縁起物、文明開化のシンボルである蒸気機関車などさまざまな絵柄の引札が作られました。引札は商店の宣伝として、得意先や街頭で配られたようです。写真の引札は「金の成る木」をあらわしていて、よく見ると、幹や枝は「しょうじ木」(正直)、「じひふか木」(慈悲深き)など金持ちになるための13の条件が文字で記され、葉は小判や札からなっています。このように引札にはさまざまなデザインの工夫が施され、時代を超えても楽しめる魅力があります。

    日下部鳴鶴の書

    日下部鳴鶴「古松流水」

    (藤野総五郎氏所蔵)

     日下部鳴鶴(くさかべめいかく)(1838年から1922年)は彦根藩士出身で、近代を代表する書家「明治の三筆」の一人に数えられます。金石学に造詣の深い楊守敬(ようしゅけい)(1839年から1915年)に師事し、廻腕執筆法(かいわんしっぴつほう)という独特の書法を学びました。日本酒で有名な「月桂冠」は鳴鶴によるものです。彦根の旧家をはじめ、豊郷においても鳴鶴の書が伝来しています。「古松流水」の額は、「鳴鶴仙史」のあと「東作之印」「桑石山房」と署名・落款されています。力強く、丁寧な筆運びに、鳴鶴の特徴があらわれています。

    古文書調査

    古文書撮影の様子

    文化遺産プランニングによる古文書調査

     町史編さん事業では、昨年度に引き続き古文書調査を行っています。町内で発見された江戸時代後期から昭和初期までの古文書を中心にリストを作成しています。文字が書かれているところは、どのような厚い冊子のものでもデジタルカメラで全て撮影しています。これまでの撮影数は約10万カット。後世に史料を残していくための大切な作業です。各字が所有している古文書をはじめ、個人で大切に受け継がれてきた史料などから、豊郷の歴史を明らかにする情報を得ることができます。

    越後の七不思議草

    木製の箱に収められた「越後の七不思儀草」

    (西山秀之氏所蔵)

     幕末の弘化3年(1846)4月27日、八町村の西山忠兵衛さんが竹ケ鼻村九平と葛籠町村甚助の両名と共に、北陸・関東方面で展開した浄土真宗の祖・親鸞聖人のゆかりの場所をめぐる長旅に出かけました。

     越後(新潟県)では親鸞聖人の奇瑞による「七不思儀草」を収集したようです。一年に三度実がなる「三度栗」や葉が片一方に伸びている「片葉の芦」などの珍しい植物が小箱にぎっしりと入れられ、今も大切に伝わっています。江戸時代の植物が朽ちることなく伝来しているのは、大変貴重であり、まさに七不思議によるものと思われます。

    石畑のガラス乾板

    昭和5年(1930年)3月に撮影された豊郷村役場の航空写真

     今から91年前の昭和5年(1930)3月、現在の豊郷町役場の位置に「豊郷村役場」が建てられました。鉄筋コンクリート造二階建て、アーチ型の大きな窓が特徴的な建物です。上の写真は村役場が建設された頃に撮影されたもので、中央には堂々たる村役場が写っています。当時の航空写真は大変珍しく、さらにガラス乾板の端には「豊郷役場」「大場少尉」と墨書されていることから、由来もしっかりとわかる貴重な資料です。このたびの町史編さん調査で石畑区よりガラス乾板が約100枚発見され、データ化したものの一つです。写真を拡大すると、役場の屋上で国旗を広げている人の姿を見つけることができます。

     令和4年度は、これらのガラス乾板でパネル展を開催させていただいております。詳しくはこちらの「町史編さんパネル展を開催しました」の記事をご覧ください。

    四十九院の双盤(鉦)

    祭礼用の双盤(鉦)
    双盤(鉦)裏面の銘文

     四十九院の春日神社には、祭礼の鳴物として使われた江戸時代の双盤(鉦(かね))が伝わります。その銘文に、享保5年(1720)京都の西村左近がつくり、四十九院村の氏子らが奉納したとあります。

     西村左近は、江戸時代を通して代々仏具を中心に製造販売し名を馳せた鋳物師の家です。当時、近江国は鋳物業が盛んで、近江商人のように全国各地に出店工場も展開していました。本町周辺では、東近江市の長村や八日市の鋳物師が歴史も古くよく知られた鋳物生産地でしたが、四十九院の氏子たちは手間や経費のかかる京都の製品を選んだようです。中世には宿場町として京都にも近しかった四十九院ですが、江戸時代にあっても京都との親近性は保たれていたのでしょう。

    吉田の団扇

    5枚の団扇

     さまざまある夏の風物詩の一つに団扇(うちわ)があります。あおぐと心地よい風を生み出してくれます。

     写真は吉田区の蔵から見つかった竹製の団扇です。団扇は扇部と柄からなります。扇面の表には海辺の景色や楽し気に舞う人々などが描かれ、裏には甚兵衛商店や市川京菓堂などの商店名が入っています。商店の住所が「日枝村吉田」と書かれていることから、昭和31年の豊郷村との合併以前に製作されたものと推測できます。また柄には製造所のシールが貼られ、その多くが彦根の「川添」で作られていたことが分かります。折りたためる扇子ではなく、団扇を広告の媒体として用いたのは、お得意様にいつも目にしてもらうためだったのでしょう。まだエアコンのなかった時代、実用的な団扇を商店の広告とした知恵とセンスがうかがえます。

    四十九院の雨乞蛇

    四十九院雨乞蛇の頭部

    タコの被り物

    タイの被り物

     暑い夏、水利環境が整っていなかった時代は旱魃(かんばつ)との闘いでした。雨乞いの行事として、四十九院には「雨乞い蛇」が伝わっています。一時途絶えましたが、昭和63年(1988)に復活され、今も辰年に行われる行事として受け継がれています。このたびの調査で昭和14年(1939)の行事の際に作られた雨乞い蛇とタイ、タコの被り物が発見されました。その年は西日本でかつてないほどの大旱魃に見舞われ、人々の生活を直撃したそうです。

     雨乞い蛇の顔は大型の箕、目は直径約20センチメートルのスイノとよばれる目の細かなフルイを用い、角は麦わらに銀紙を貼ったもの、ひげは竹を割り鼻の横に取り付けられるなど、見た目に大変迫力があります。一方、タイとタコの被り物は愛嬌ある表情で行事を盛り上げていたようです。身近な材料を用いて造作されていることに、先人の創造力と表現力がうかがわれます。

    日枝村と豊郷村の合併

    昭和29年5月合村に関する書類綴と昭和31年9月閉庁式開庁式関係書類綴

     昭和31年(1956)9月、旧豊郷村と旧日枝村が合併して新・豊郷村が誕生しました。今年は合併65周年、昭和46年(1971)2月に町制が施行されて50周年という記念すべき年を迎えています。

     写真は豊郷町役場で保管されている合併に関する書類です。ここには合併に至るまでの先人たちの苦労と努力が書き綴られています。昭和31年9月19日、ちょうど中秋の名月の夜に調印式が執り行われました。当時の豊郷村村長であった村岸峯吉氏は調印式の際に「各々長所をとり特に融和して新しい村を築きましょう」と涙ぐみながら語っています。

     合併して65年、豊郷は教育・交通・文化面など多岐にわたり目まぐるしく発展を遂げています。町史編さんではその歴史を後世につなげる事業として取り組んで参ります。

    四十九院公会堂の軸

    「海辺松図」

    印章(上「古川之印」下「半湖」)

     四十九院の中山道沿いにあった公会堂は、現在取り壊し作業が進められています。この奥座敷の床の間に、「海辺松図」という軸が掛けられていました。墨と淡い朱色のみで描かれ、作者の印章には「古川之印」「半湖」とあります。「半湖」とは、古川鉄治郎の父で豊郷村長も務めた古川半六の号です。左上に大正7年(1918)正月、御勅題(ごちょくだい)の「海辺松」を古稀にあたり描いたものと記されています。画風は江戸時代後期に近江で盛んだった南画(中国絵画の系統の一つ)の影響をしっかりと受け継いでいます。公会堂は半六の三男定次郎が、奥座敷は次男鉄治郎がそれぞれ寄附していることからも、古川親子らの地元に対する思いがうかがえます。

    又十藤野の絵馬

    奉納絵馬(網走神社所蔵)

     豊郷町出身の豪商・又十(またじゅう)藤野は、天明元年(1781)に蝦夷地・北海道に渡りました。その手段は木造の船舶による航海で、天候によっては命がけでの行程であったことが察せられます。網走神社(北海道網走市)には、又十藤野が航海の安全を祈願して奉納した13点の絵馬が、今も色鮮やかに保管されています。写真は絵師・吉本善京が描いた弘化4年(1847)の絵馬で、北前船「長者丸」が大海原をダイナミックに進んでいる様子が描写されています。

    寺子屋の教科書

    「庭訓往来」(西山肇氏所蔵)

    「商売往来」(西山肇氏所蔵)

     江戸時代、僧侶や医師などが読み・書き・そろばんを子どもたちに教えていた施設を「寺子屋」と言います。雨降野の西山家には『商売往来』『庭訓(ていきん)往来』など9冊(安政5年〜明治2年)の教科書が残されています。教科書は全て墨書で手作りされたもので、末尾には雨降野の霊祥寺の山号「瑞華山」が見えることから、住職が村の子弟教育を行っていたことが分かります。見返しには手習いの跡が見え、紙の端々からは何度もページをめくって学んでいた形跡がうかがえます。また興味深いことに、西山松堂など数名の人物による和歌もつづられ、それは当時の村人によるものと考えられます。地域の人も携わって教育が行われてきた様子が伝わってきます。

    町史編さん事業では古い書物や写真を探しています

     町史編さん事業では資料の収集を行っています。豊郷町に関連する昔の写真や古い書物をお持ちの方はいらっしゃいませんか?江戸時代の書物だけでなく、大正時代、昭和時代のものも貴重な資料となりえますので、もしお持ちの方がいらっしゃいましたら、社会教育課までご連絡いただけますと幸いです。町史編さん事業へのご協力をなにとぞよろしくお願いいたします。

     町史編さん事業に関するお問合せは、ページ下部のお問い合わせ先までお願いいたします。